美濃国 松尾山城跡
関ヶ原合戦の際
小早川秀秋が陣を置いたところです
応永年間(1394年~1428年)に美濃小守護代富島氏によって築かれました
1570年浅井長政が織田信長に反旗を翻した時樋口直房に松尾山城を占拠修復させたました
しかし、樋口直房は調略により信長方に降り、城には信長家臣不破光治が配されます
信長領土拡大により国境警備の役目もなくなり
不破光治の越前転封により廃城となりました
1600年石田三成が西軍大将 毛利輝元の本陣として、この松尾山城を改築させたのですが
小早川家臣 稲葉正成らは前々から徳川家康への寝返りを合作し、
合戦前日 松尾山城主(大垣城主伊藤盛正)を追い払い不法に
この松尾山城を小早川秀秋の陣としたのであります
山頂からは関ヶ原一帯が一望でき
小早川秀秋軍1万5千の兵が
この松尾山から大谷吉継軍に向かってかけおりていきました
これにより徳川が勝利したのであります
松尾山山頂には、主郭には土塁・桝形虎口が設けられ
堀切・各尾根上には曲輪が見受けられます
主郭は大きいとは言えないが、中世山城そのものであり
関ヶ原戦い前に曲輪等が改築されたと思われます
松尾山全体に多くの兵の鼓動が、今なお漂っていました
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小早川秀秋が陣を置いたところです


応永年間(1394年~1428年)に美濃小守護代富島氏によって築かれました
1570年浅井長政が織田信長に反旗を翻した時樋口直房に松尾山城を占拠修復させたました
しかし、樋口直房は調略により信長方に降り、城には信長家臣不破光治が配されます
信長領土拡大により国境警備の役目もなくなり
不破光治の越前転封により廃城となりました
1600年石田三成が西軍大将 毛利輝元の本陣として、この松尾山城を改築させたのですが
小早川家臣 稲葉正成らは前々から徳川家康への寝返りを合作し、
合戦前日 松尾山城主(大垣城主伊藤盛正)を追い払い不法に
この松尾山城を小早川秀秋の陣としたのであります
山頂からは関ヶ原一帯が一望でき
小早川秀秋軍1万5千の兵が
この松尾山から大谷吉継軍に向かってかけおりていきました
これにより徳川が勝利したのであります






松尾山山頂には、主郭には土塁・桝形虎口が設けられ
堀切・各尾根上には曲輪が見受けられます
主郭は大きいとは言えないが、中世山城そのものであり
関ヶ原戦い前に曲輪等が改築されたと思われます
松尾山全体に多くの兵の鼓動が、今なお漂っていました

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三河国 大給城跡 (国指定史跡 松平氏遺跡)


大給城は応仁年間1469年頃地元の土豪 長坂新左衛門が築城
松平宗家3代松平信光が攻め落としその子松平親忠(宗家4代)に与え
親忠は次男松平乗元にゆずりました(大給松平氏初代)
乗元とその子乗政によって本格的城郭に整備されます
大給城は徳川家康が関東に移封となったころ廃城となりました





城郭は山頂に主郭と副郭、南側に居館を建てた曲輪を配し、北側に水の手曲輪を二つ設けています
堀切・虎口・曲輪・石垣など中世山城の遺構が今に残されています
この城にはもう一つ、巨石(自然石)が点在していて
より大きく美しく映し出されています




松平氏ルーツの旅
徳川家康が江戸幕府開き
松平一族が繁栄していった一歩を見てきました
とてもよい登城でした

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三河国 松平城跡 (国指定史跡 松平氏遺跡)

松平氏発祥の地 松平郷
徳川家康の祖先はここ松平郷より勢力拡大して行きました
家康から数えて8代前、初代松平親氏が松平城(郷敷城)を築きました。
3代目信光は岩津城を本拠地として西三河の半ばを治める事に成功
信光の系統は松平宗家として代々続き、家康にいたります
松平郷は信光の兄信広が治め松平太郎左衛門家を継ぎ、江戸時代交代寄合旗本として明治に至りました
松平城は松平氏館(現在松平東照宮)の詰の城として築かれ
山頂に主郭と大きく4つの曲輪が残されていました



松平東照宮


徳川将軍家ルーツの旅
松平郷はしずかでむかしをしのぶ風景がありました。

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