但馬国 竹田城跡 (虎臥城)
守護大名山名氏の宿老 太田垣氏が築城
1598年羽柴秀吉が但馬守護に任じた赤松広秀が今日残る
豪壮な石垣上に天守・御殿・櫓を築きました
1600年関ヶ原の戦いでは西軍に身を置いた為自刃させられ
竹田城は廃城となりました
石垣は穴太積み
縄張りは中央の最高峰に天守台
周囲に本丸・平殿・奥殿・花殿を配し、さらに南千畳・北千畳があり
城の規模は南北約400m東西100mでとても美しくみごとな山城です
やはりこの景色が一番
戦国時代最後の山城であり、これほど見事な石垣が今に残る竹田城
一度は登城したかった夢がかない感激いっぱいです
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但馬国 出石城
但馬国の中心だった出石にいきました
応仁の乱の主役山名宗全(持豊)の本拠
此隅山城
山名氏は山陰・山陽・畿内に計11ヶ国を領国
日本の6分1が山名氏支配の為六分の一殿と呼ばれたそうです
1574年山名祐豊の代、此隅山城は羽柴秀吉の襲撃により落城
南方2km先に有子山城築く
有子山城は本格的な石垣を要所にめぐらす山城だったが
1580年羽柴軍の来襲により城主山名氏政は開城し名族山名氏は滅亡しました
関ヶ原の戦いで城主小出吉政は弟秀家の東軍にあって功績により所領安堵
2代吉英の代に山城を廃し山麓にかけて
今に残る出石城を築きました
城主は九代目で小出氏は断絶 久世氏、松平氏、仙石氏九代で明治を迎えました
但馬国を旅するのは初めてで、出石がこんな大きな観光地だとはおもいませんでした
私はあまり人が行かない隠れた城跡が好きなんですが
ここ出石はむかしを思うにとても良い所でした
石垣がとてもみごとでした
有子山城にも登城したかったのですが時間がなかった為断念しました
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応仁の乱の主役山名宗全(持豊)の本拠
此隅山城
山名氏は山陰・山陽・畿内に計11ヶ国を領国
日本の6分1が山名氏支配の為六分の一殿と呼ばれたそうです
1574年山名祐豊の代、此隅山城は羽柴秀吉の襲撃により落城
南方2km先に有子山城築く
有子山城は本格的な石垣を要所にめぐらす山城だったが
1580年羽柴軍の来襲により城主山名氏政は開城し名族山名氏は滅亡しました
関ヶ原の戦いで城主小出吉政は弟秀家の東軍にあって功績により所領安堵
2代吉英の代に山城を廃し山麓にかけて
今に残る出石城を築きました
城主は九代目で小出氏は断絶 久世氏、松平氏、仙石氏九代で明治を迎えました
但馬国を旅するのは初めてで、出石がこんな大きな観光地だとはおもいませんでした
私はあまり人が行かない隠れた城跡が好きなんですが
ここ出石はむかしを思うにとても良い所でした
石垣がとてもみごとでした
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丹後国 田辺城(舞鶴城)
1578年細川藤孝(幽斎)が織田信長よりこの地を与えられ田辺城を築く
本能寺の変の翌年1583年細川忠興が父幽斎が隠居城としていた田辺城を改築入城しました
1600年細川忠興は、徳川家康の会津征伐軍に加わった
この留守中、石田三成らが兵を挙げた為
隠居していた幽斎は自分の居城である宮津城では攻防できないと考え
宮津城を焼き払いこの田辺城にて西軍1万5千の兵と攻防をくりひろげました
近世には京極氏、牧野氏が入城し明治に至りました
田辺城の石垣は牛蒡積みまたは笑い積みで近年に積み上げられたものも含め
残されていました
現在復興隅櫓と大手門が立っていて史料館となっています
連休に丹後国・但馬国に心うきうきで行ってきました
久々のブログ更新でした
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