美濃国 迫間城跡

標高220mの迫間山の山頂に主郭があり、その周囲には3段の腰曲輪が置かれ
東側尾根筋に2本の堀切が確認できます。
色々調べましたが、築城者はわかりませんでした。
見晴らしは最高です。





迫間不動尊



迫間山の中腹には迫間不動があります。
823年開基。本尊は不動明王で、自然の岩窟に安置されています。
岩窟の前には修行にも使われる滝が、流れ落ちています。
とても幻想的な雰囲気が漂っていました。

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大島光義 弓の名手大島雲八
大島光義は1508年美濃国で生まれ、美濃国関藩初代藩主となりました。
美濃斎藤氏の家臣、長井道利に従い弓の名手として数々の戦陣に立ってきました。
1567年織田信長に稲葉山城を攻略され、斎藤家が滅亡すると
光義60歳にして織田家に仕官、弓大将となり信長から百貫文を与えられました。
姉川の戦いや坂本の戦いで信長より 「白雲をうがつような働き」 と賞され
命により通称を雲八と改めました。
1582年本能寺の変で信長が討死にすると丹羽長秀に仕え
賤ヶ岳の戦いの戦功により8000石に加増されました。
1585年長秀死去に伴い6000石に減知となるが、豊臣秀吉に仕え弓足軽大将となりました。
小田原征伐参陣や朝鮮出兵の際、名護屋城に在陣した働きに対して
1598年12000石に加増され大名に列しました。
1600年嫡男光成とともに93歳で会津征伐に従軍し
関ヶ原の戦いでは次男三男は西軍に与したが、光義の東軍での大いなる武功により
2人の罪は許され、光義は18000石に加増となりました。
光義は生涯53度の戦に臨み、41通の感状を賜り、1604年97歳の生涯を閉じました。
家督は嫡男光成が相続。光成自身は7500石、次男光政に4710石、三男光俊に3250石
四男光朝に2550石を分地し、それぞれ1万石以下の旗本となり、関藩は廃藩となりました。

大雲寺 関藩主大島光義菩提寺

白華山大雲禅寺 大島光義三男大島光俊が建立の大島家菩提寺
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美濃斎藤氏の家臣、長井道利に従い弓の名手として数々の戦陣に立ってきました。
1567年織田信長に稲葉山城を攻略され、斎藤家が滅亡すると
光義60歳にして織田家に仕官、弓大将となり信長から百貫文を与えられました。
姉川の戦いや坂本の戦いで信長より 「白雲をうがつような働き」 と賞され
命により通称を雲八と改めました。
1582年本能寺の変で信長が討死にすると丹羽長秀に仕え
賤ヶ岳の戦いの戦功により8000石に加増されました。
1585年長秀死去に伴い6000石に減知となるが、豊臣秀吉に仕え弓足軽大将となりました。
小田原征伐参陣や朝鮮出兵の際、名護屋城に在陣した働きに対して
1598年12000石に加増され大名に列しました。
1600年嫡男光成とともに93歳で会津征伐に従軍し
関ヶ原の戦いでは次男三男は西軍に与したが、光義の東軍での大いなる武功により
2人の罪は許され、光義は18000石に加増となりました。
光義は生涯53度の戦に臨み、41通の感状を賜り、1604年97歳の生涯を閉じました。
家督は嫡男光成が相続。光成自身は7500石、次男光政に4710石、三男光俊に3250石
四男光朝に2550石を分地し、それぞれ1万石以下の旗本となり、関藩は廃藩となりました。


大雲寺 関藩主大島光義菩提寺



白華山大雲禅寺 大島光義三男大島光俊が建立の大島家菩提寺

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親鸞聖人

今年に入り、多忙な為、城跡巡りも行けずにいたところ
親鸞聖人像を我が家に招くことになりました。
簡単に、ご紹介をいたします。
親鸞聖人は浄土真宗の宗祖ですが、生涯法然上人を師と仰ぎ、
法然上人によって明らかにされた、浄土往生を説く真実の教えを継承し
さらに高めていく事に力を注がれました。
親鸞聖人は自坊をもたず、各地に念仏道場を設けて教えを説かれ
そのもとには多くの人々が集い、弟子達も生まれました。
親鸞聖人没後に、他力本願の教えを大系的に著した『教行信証』が
浄土真宗の根本聖典とされ、この書が完成した1224年が
立教開宗の日とされています。

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美濃国 加納城跡
美濃国 岐阜城跡 発掘調査










岐阜城の発掘調査は1984年山麓部から始まり、2019年からは山上部へと移り
新たな石垣も発掘調査され、信長が造った岐阜城の事が、色々分かってきました。
険しい山城の岐阜城ですが、信長は山上と麓に二つの天守を建てました。
中世城郭から、近世城郭の安土城へと進む、城づくりの変貌を
見る事ができるかもしれません。
今年から、木の伐採作業も一部始まるということです。

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