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筑前国 福岡城跡


福岡城は関ヶ原の戦いで筑前一国52万3000石を得た黒田長政の居城です。
築城名手でもある父黒田孝高(如水)が縄張りし
1601年築城を開始、7年の歳月を費やして完成させました。
52万石の太守にふさわしい、総石垣の本丸、二の丸、三の丸を構えましたが
天守台には、どの様な天守が建てられたかは文献がなく今も分かっていません。
石塁上には47基の櫓、10棟の城門を配し
武家地の総構えを水堀で囲む、総面積24万㎡を誇る巨大な城でした。
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本丸天守台からは美しい福岡の街並みが見えます。
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筑後国 久留米城跡


久留米城は室町後期に築城された篠山城が前身で、1587年豊臣秀吉が九州を平定し
毛利秀包が笹山城に入り本格的な城郭へと修築しました。後の久留米城となります。
1600年秀包は関ヶ原の合戦で西軍に属した為、所領を没収されました。
田中吉政が筑後の柳川藩32万5千石の藩主となり
次男の吉信が支城の久留米城に入りました。
1620年2代目柳川藩主忠政が死去、無嗣断絶のため改易となり
1621年筑後は分割されて、有馬氏が21万石の久留米藩主となり幕末まで存続しました。

本丸には天守は設けられませんでしたが、7基の三重櫓を二重の多聞櫓で接続して
本丸全体を囲い込む厳重な構えでした。
そのなかで巽櫓は規模が大きく初層七間×八間の大規模なもので
一重目の屋根の四面に千鳥破風が採用されるなど、実質的な天守でした。
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現在本丸の高石垣が当時の姿の片鱗として誇らしく力強くたっています。
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豊後国 佐伯城跡


1601年毛利高政が豊後日田二万石から佐伯二万石に移され栂牟礼城に入城。
栂牟礼城は戦国時代の古い山城であった為
1602年八幡山に佐伯城の築城を開始。
1606年本丸・二の丸・西出丸・北出丸・捨曲輪を配した総石垣の佐伯城が
完成しました。
本丸には三重天守を築き、さらに二重櫓が5基、平櫓1基、門が7棟という
山城としては大城郭でした。
1637年3代高尚のとき、麓の三の丸を改修し藩主の居館を麓に移しました。
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標高140mの八幡山を30分くらいで登ると
そこには立派な石垣が連なり
麓からは見えなかった美しい景色に大感激。
胸躍る登城でした。
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豊後国 臼杵城跡(丹生島城)


臼杵城は、16世紀後半に豊前、豊後、筑後、筑前、日向などの5ケ国以上を支配し
一時は周防から瀬戸内海までも領国下に置いた大友宗麟の築いた城です。
宗麟は府内の西山大友館を本拠とし、いざという時には高崎山城に立て籠もる体制でしたが
豊後水道の制海権と飫肥にかけての日向平野を制圧する為、
1562年に本拠を臼杵城に移しました。
臼杵城は、海岸に突出する丹生島に建てられており、別名丹生島城とも言います。
城内にはセミナリオとキリスト教会堂を建て
自らもキリシタン洗礼を受けるなど、宣教師の受け入れに熱心でした。
府内の西山大友館には家督を継がせた嫡男義統を置きました。
1578年耳川の戦いで島津軍と激突し大敗。
のちの1586年戸次川の戦いでも島津軍に敗北し、島津軍は臼杵城を包囲しました。
宗麟は南蛮渡来の「国崩し」と呼ばれる大砲などを駆使して臼杵城からは退却させたが、
城下は焼かれキリシタン文化がすべて灰になり、翌年宗麟は病死しました。
1593年大友義統は、朝鮮出兵の折、命令違反により、豊臣秀吉の怒りに触れ所領没収となり
豊後国には石田三成の妹婿福原直高が入りました。
関ヶ原の合戦後臼杵城には、稲葉貞通が入城し臼杵藩の藩庁として
明治まで稲葉氏の居城となりました。
城は稲葉氏によって大手枡形や三の丸の整備、石垣を修復し
本丸・二の丸には、三重天守や三重櫓1基、二重櫓19基平櫓3基城門9棟が建ち、
近世城郭に整備されました。
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稲葉氏下屋敷と庭園

西美濃の3人衆稲葉一鉄の嫡男で稲葉貞通が郡上八幡より豊後国臼杵5万石に国替え。
その距離の大変さを知る旅行でもありました。
海なし県に住む人間は海を見ると〝海だぁ~″と感激しますが、貞通も山奥から海辺にきて
さぞかし感激したであろうと思います。
臼杵はとても親しみある町でした。
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豊後国 府内城跡


府内城は1597年石田三成の妹婿であった福原直高が
12万石で豊後に入り築城を開始しました。
3年後、城は一応の完成を見ましたが、石田三成の失脚に伴い
徳川家康から福原直高は、無益な工事であり領民を苦しめた
という理由により、府内城築城は中止となり所領を没収された。
それは家康と三成の確執からであり、関ヶ原の合戦への家康の布石でもありました。
関ヶ原の合戦後は竹中重利が入城。
望楼型天守を層塔型天守に改造、城下を整備し外堀も完成させ
城を近世城郭へと大改造させました。
その後城主は竹中氏から日根野氏に替わり
1658年大給松平氏が入城、以降明治まで松平氏が居城しました。
1743年大火により天守を含む大部分の建造物を焼失。
以降天守は再築されませんでした。
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大分市内中心にあって内堀と石垣が今なおきちんと残り
素晴らしい景色を創り出しています。
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