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明智光秀②

1535年養父明智光綱の死により光秀が家督するも7歳と若く
叔父の明智光安が後見人となる 。
1542年斉藤道三は美濃国守護の土岐頼芸を追放し、美濃国主となる。
道三は土岐頼芸が愛妾の深芳野を自分の側室にしましたが
深芳野は既に頼芸の子を宿していました。
その子が後の斉藤義龍です。
道三と義龍は家督を譲る際不仲となり
1556年の長良川合戦で、斎藤義龍が父斎藤道三を討ち果たしました。
明智家は土岐頼芸の子である斎藤義龍と同じ土岐氏一族ながら道三に味方しました。
それは、道三の正室小見の方が光秀の叔母に当たる為でありました。
義龍により明智城も攻撃され、光秀は一族を連れて城を脱出しました。
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稲葉山城と長良川
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道三の隠居城鷺山城跡
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美濃国 妻木城跡 

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妻木城は美濃国守護土岐頼貞の孫、明智頼重が14世紀に築城したとされます。
15世紀後半頃、妻木郷周辺を治めて妻木氏となる。
このころ山頂部の広範囲に多くの曲輪が造られました。
17世紀初頭になると、居館は麓に移動しました。
関ヶ原の戦い後、妻木氏は7500石を領する城主として三代続きましたが
1658年城主が急死、後継ぎがなくお家は断絶し妻木城も廃城となりました。
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現在山頂部では曲輪、石垣、堀切などを見ることができます。
腰曲輪には石積みされたような興味深い巨石が多く点在し
城跡の探索をより楽しくさせてくれます。
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山麓の士屋敷跡

明智光秀の正室は12代目城主妻木広忠の娘、お牧の方と言われています。
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明智光秀① 誕生地

明智光秀は1528年8月17日、父は多羅城主山岸信周、母は明智城主
明智光綱の妹、市の方の4男として多羅城で生まれました。
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大垣市上石津町多良・時地区には5か所程城跡があり
多羅城はその内のどれかではないかと言われています。
西高木家陣屋跡もその内の1つです。
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山岸家は「進士山岸家」もしくは役職のみで「進士家」と呼ばれ
進士とは朝廷における冠位若しくは役職などの呼称で
光秀の兄進士晴舎は将軍足利義輝に仕え、1565年永禄の変で死亡しました。

明智家は土岐頼兼が1342年明智城を築城し、明智頼兼となり分家独立する。
1355年足利尊氏から勲功により石津郡多良に領地を与えられています。
光秀誕生の173年前は明智領であり、山岸家とは重縁関係にありました。
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明智城跡(可児市)
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明智光綱には子供がなく、妹の子を養子に迎え入れ光秀と名づけました。

光秀の誕生地は諸説ありますが、私は古文書が示す通りだとおもいます。
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越前国 一乗谷 朝倉氏居館跡・城下町跡

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一乗谷といえば、越前朝倉家7代敏景から11代代義景までの本拠地です。
谷全体に城下町が築かれ、朝倉氏の館が建てられ、その背後の山には一乗城が築かれました
7代敏景は1471年越前一国を平定し、斯波氏に代わって守護となりました。
9代貞景は、1499年逃走中の10代将軍足利義稙が、朝倉氏を頼って一乗谷を訪れると
義稙を将軍職に復帰させました。
10代孝景の時代になると、近江・美濃など近隣諸国にたびたび出兵して、勝利を収める一方
京や奈良から多くの文化人を受け入れるなど、軍事的にも政治的にも最盛期を迎えました。
だが、次の11代義景は、後に15代将軍となる足利義昭を1567年一乗谷に迎えておきながら
上洛のための行動をおこしませんでした。
その為、義昭は義景を見限り織田信長を頼ることとなります。
信長はすぐさま義昭を奉じて上洛をしてしまい、5年後の1573年
信長は越前に義を持って侵攻することとなりました。
義景は刀根坂の戦いで大敗。一乗谷は手当たり次第に火をかけられ、
100年におよぶ一乗谷の歴史が終わりました。
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一乗城はもともとは南北時代の築城とみられる連郭式縄張の中世山城ですが
1570年ごろ織田信長の越前侵攻に備えて数多くの畝状竪堀群を築くなどの改修を行い
防備を強化しましたが一度も実戦で使用されることなく廃城となりました。

時間と体力に余裕なく、今回も登城を断念してしまいました。
麓の居館部は、朝倉氏の栄華の景色の名残が目に飛び込んできて
中世のかおり漂う良い散策ができました。
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越前国 大野城


越前大野城は、1575年金森長近が、越前平定の功績により
織田信長より大野郡に3万石の領地を与えられ、築城しました。
亀山山頂の天守台石垣上には、大天守と小天守、天狗書院が建ち並び
3棟とも一・二階同大で、屋根は檜皮葺でした。
天守曲輪には武器櫓、塩硝櫓、麻木櫓がめぐり、本丸大手口と地獄谷口が作られました。
麓には二の丸・三の丸があり、その東側は碁盤目状に城下町がつくられました。
1586年長近が飛騨高山へ移り、長谷川秀一、次いで青木一矩、1592年織田秀雄が入城しました。
1600年からは越前一国は結城秀康の支配下に入り、城代が置かれ、1624年松平家が大野藩として独立。
1682年土井利房が入城。土井家八代で明治を迎えました。
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現在天守台石垣には、復興天守が建っていますが
野面済みの石垣や急勾配の石段などは、戦国期の築城を見せつけてくれます。
30年以上前、当時は車で天守曲輪まで行くことができ、降りたらハチに襲われ事を思い出しました。
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