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明智光秀① 誕生地

明智光秀は1528年8月17日、父は多羅城主山岸信周、母は明智城主
明智光綱の妹、市の方の4男として多羅城で生まれました。
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大垣市上石津町多良・時地区には5か所程城跡があり
多羅城はその内のどれかではないかと言われています。
西高木家陣屋跡もその内の1つです。
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山岸家は「進士山岸家」もしくは役職のみで「進士家」と呼ばれ
進士とは朝廷における冠位若しくは役職などの呼称で
光秀の兄進士晴舎は将軍足利義輝に仕え、1565年永禄の変で死亡しました。

明智家は土岐頼兼が1342年明智城を築城し、明智頼兼となり分家独立する。
1355年足利尊氏から勲功により石津郡多良に領地を与えられています。
光秀誕生の173年前は明智領であり、山岸家とは重縁関係にありました。
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明智城跡(可児市)
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明智光綱には子供がなく、妹の子を養子に迎え入れ光秀と名づけました。

光秀の誕生地は諸説ありますが、私は古文書が示す通りだとおもいます。
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越前国 一乗谷 朝倉氏居館跡・城下町跡

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一乗谷といえば、越前朝倉家7代敏景から11代代義景までの本拠地です。
谷全体に城下町が築かれ、朝倉氏の館が建てられ、その背後の山には一乗城が築かれました
7代敏景は1471年越前一国を平定し、斯波氏に代わって守護となりました。
9代貞景は、1499年逃走中の10代将軍足利義稙が、朝倉氏を頼って一乗谷を訪れると
義稙を将軍職に復帰させました。
10代孝景の時代になると、近江・美濃など近隣諸国にたびたび出兵して、勝利を収める一方
京や奈良から多くの文化人を受け入れるなど、軍事的にも政治的にも最盛期を迎えました。
だが、次の11代義景は、後に15代将軍となる足利義昭を1567年一乗谷に迎えておきながら
上洛のための行動をおこしませんでした。
その為、義昭は義景を見限り織田信長を頼ることとなります。
信長はすぐさま義昭を奉じて上洛をしてしまい、5年後の1573年
信長は越前に義を持って侵攻することとなりました。
義景は刀根坂の戦いで大敗。一乗谷は手当たり次第に火をかけられ、
100年におよぶ一乗谷の歴史が終わりました。
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一乗城はもともとは南北時代の築城とみられる連郭式縄張の中世山城ですが
1570年ごろ織田信長の越前侵攻に備えて数多くの畝状竪堀群を築くなどの改修を行い
防備を強化しましたが一度も実戦で使用されることなく廃城となりました。

時間と体力に余裕なく、今回も登城を断念してしまいました。
麓の居館部は、朝倉氏の栄華の景色の名残が目に飛び込んできて
中世のかおり漂う良い散策ができました。
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越前国 大野城


越前大野城は、1575年金森長近が、越前平定の功績により
織田信長より大野郡に3万石の領地を与えられ、築城しました。
亀山山頂の天守台石垣上には、大天守と小天守、天狗書院が建ち並び
3棟とも一・二階同大で、屋根は檜皮葺でした。
天守曲輪には武器櫓、塩硝櫓、麻木櫓がめぐり、本丸大手口と地獄谷口が作られました。
麓には二の丸・三の丸があり、その東側は碁盤目状に城下町がつくられました。
1586年長近が飛騨高山へ移り、長谷川秀一、次いで青木一矩、1592年織田秀雄が入城しました。
1600年からは越前一国は結城秀康の支配下に入り、城代が置かれ、1624年松平家が大野藩として独立。
1682年土井利房が入城。土井家八代で明治を迎えました。
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現在天守台石垣には、復興天守が建っていますが
野面済みの石垣や急勾配の石段などは、戦国期の築城を見せつけてくれます。
30年以上前、当時は車で天守曲輪まで行くことができ、降りたらハチに襲われ事を思い出しました。
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筑前国 福岡城跡


福岡城は関ヶ原の戦いで筑前一国52万3000石を得た黒田長政の居城です。
築城名手でもある父黒田孝高(如水)が縄張りし
1601年築城を開始、7年の歳月を費やして完成させました。
52万石の太守にふさわしい、総石垣の本丸、二の丸、三の丸を構えましたが
天守台には、どの様な天守が建てられたかは文献がなく今も分かっていません。
石塁上には47基の櫓、10棟の城門を配し
武家地の総構えを水堀で囲む、総面積24万㎡を誇る巨大な城でした。
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本丸天守台からは美しい福岡の街並みが見えます。
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筑後国 久留米城跡


久留米城は室町後期に築城された篠山城が前身で、1587年豊臣秀吉が九州を平定し
毛利秀包が笹山城に入り本格的な城郭へと修築しました。後の久留米城となります。
1600年秀包は関ヶ原の合戦で西軍に属した為、所領を没収されました。
田中吉政が筑後の柳川藩32万5千石の藩主となり
次男の吉信が支城の久留米城に入りました。
1620年2代目柳川藩主忠政が死去、無嗣断絶のため改易となり
1621年筑後は分割されて、有馬氏が21万石の久留米藩主となり幕末まで存続しました。

本丸には天守は設けられませんでしたが、7基の三重櫓を二重の多聞櫓で接続して
本丸全体を囲い込む厳重な構えでした。
そのなかで巽櫓は規模が大きく初層七間×八間の大規模なもので
一重目の屋根の四面に千鳥破風が採用されるなど、実質的な天守でした。
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現在本丸の高石垣が当時の姿の片鱗として誇らしく力強くたっています。
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